歌謡曲好きなら誰もが知る伝説の歌姫ちあきなおみさん。
歌唱、発声のテクニックと表現力が見事に兼ね備わっていて、非の打ち所がない。
桑田佳祐さんも最強の歌手はちあきなおみさんと言うくらい、妖艶な歌声と表現力で唯一無二のボーカル。
人生の機微や哀歓を巧みに操る彼女の声は、若い世代にも再注目が集まっています。
という事で、ちあきなおみさんが伝説の歌姫と呼ばれる訳を探ってみました。加えて現在の活動も調査!
【画像】ちあきなおみが若い頃から伝説の歌姫と呼ばれる訳は?
ちあきなおみさんの曲と言えば、1972年の日本レコード大賞を受賞した「喝采」が有名。
皆さんも一度は何処かで耳にしたことがあるはずですが、今もその歌の魅力は色褪せず、宮本浩次さん、藤あや子さんなど、ジャンルも世代も多岐にわたる。多くのアーティストにカバーされてます。
伝説の歌姫と呼ばれる訳には、いくつものエピソードがありそうですね。
4歳から米軍キャンプで歌っていた
芸事が好きなお母さんの影響もあり、4歳で横浜、横須賀、立川など米軍キャンプ内のクラブで、花柄のワンピースのドレスを着て、タップダンスを踊り、ジャズを歌っていたんですって。
1947(昭和22)年9月17日生まれのちあきなおみさん(本名:瀬川 三恵子)、日本に進駐したアメリカ兵の前で堂々と歌い、終われば拍手喝采で、幼いながらも、自分の歌が喜ばれている嬉しさは心に感じていたようです。
スポットライトに照らされて歌う楽しさもこの頃に味わったのかもしれません。
その後5歳にして日本劇場(通称・日劇)のステージに立っています。
中学生でプロダクションに所属
7歳からは父親との確執もあり一旦活動を休止、その後両親の離婚を機に12歳でプロダクションと契約。
ステージ名を「メリー児玉」「五条ミエ」「南条美恵子」と変遷させながら、ジャズ喫茶で歌っていたようです。
幼い頃から大人との仕事をしていたからなのか、随分と大人っぽい容姿の中学生です。
前座歌手としてスター歌手の一座に入り、ステージに立ち、旅から旅への生活。衣装や化粧道具を抱え、バスや船で日本各地を巡業するのである。そんな生活の中でも、三恵子は歌に対して勇猛精進の志を崩すことはなかった。やがてキャバレーや余興ショーなどの舞台で、ロック、ジャズ、また着流し姿で演歌などを歌いこなしながら、音楽への造詣を深めてゆく。
引用:デイリー新潮
中学生からキャバレーでの巡業とは、相当な覚悟や責任感がないと務まりませんよね。
おまけに下手なショーでは酔っ払いの客からヤジも飛びそうですので、この頃から高い評価があったからこ各地の余興に呼ばれていたんだろうなと想像できます。
デビュー3年目でレコード大賞
1969(昭和44)年6月10日、ちあきなおみは「雨に濡れた慕情」でレコードデビューを果たします。
デビュー当時のキャッチフレーズは「苗字がなくて名前がふたつ」「魅惑のハスキーボイン」。
かなり昭和な感じのキャッチフレーズですね。今ならありえません。
芸名は、当時のフジテレビのプロデューサー千秋予四夫(せんしゅう よしお)の姓を「ちあき」と読ませ、坂本龍馬の諱(本名)の「直柔」からなおみと付けたそうです。
デビュー後は瞬く間にスター歌手への階段を駆け上がり1970年「四つのお願い」で紅白初出場、1971年には日劇で初のワンマンショー、テレビドラマやバラエティ番組にも出演し活動の幅を広げてゆきます。
そして1972年、「喝采」で「第十四回日本レコード大賞」を受賞し、歌謡界の頂点に。このとき25歳、デビューから僅か三年目の快挙なんです。
私は当時4歳でしたが、この番組を見てたと記憶しています、ちあきなおみさんが当時25歳だったなんて、もっと大人の女性に映っていました。
「レコード大賞を受賞してから、いつもヒット曲を追っていかなければならないという状態に疲れてしまった。『矢切の渡し』を出した頃に、これからは着物を着て、演歌路線でやってくれ、とレコード会社から言われて。私はもっといろいろなジャンルを歌いたいと思っていたので、そうやって範囲を狭められるのは嫌だな、と」
引用先:デイリー新潮
商業路線に従わず独自路線へ
連続でヒットを生み出したいレコード会社からは美空ひばり路線を推されていたが、幼い頃から自己が確立されていたちあきなおみさんは、その意向に従わず、独自路線を貫くことを決意します。
その背景には、1978年に結婚した俳優 郷鍈治(ごう えいじ)さん、後にちあきなおみさんのプロデューサー兼マネージャーとして携わることになった彼の後押しが大きかったようです。
その後生まれた「夜へ急ぐ人」という歌は、ちあきなおみさんの独自路線の象徴とも言っても過言ではありません。
女の狂気を表現した歌でアングラな世界観の歌なのですが、マニアの間では、彼女の裏代表曲とされているそうです。
ちあきなおみさんが歌うと、本当に怖いのです。そこが魅力なんですけどね。
ちあきなおみの現在の活動
夫の急死により活動休止
1992年9月11日に最愛の夫、郷鍈治さんが病死。享年55歳。
彼が荼毘に付される時、ちあきなおみさんは柩にしがみつきながら「私も一緒に焼いて」と号泣したという。
因みに郷鍈治さんの兄は宍戸錠さん、甥は宍戸開さん。
郷鍈治さんの早過ぎた死によって、深く愛していた妻のちあきなおみさんの歌手業を含めた芸能活動完全休止の契機となり、2025年の現在も変わらず事実上の引退となっています。
活動休止中でも人気は衰えず
最愛の夫のお墓参りには毎月お墓参りへ出かけているというちあきなおみさん。
デビュー55周年の2024年6月、代表曲の『喝采』を含む425曲が、音楽サブスクリプションサービスで配信されました。
ちあきなおみさんの楽曲は、往年のファンに加えて若い世代からも注目され、結果、レコチョクとiTunesのダウンロード数ランキングで『喝采』が1位を獲得。
「郷さんとのお別れをきっかけに芸能界を離れた彼女ですが、長い年月を経て、その思いにも少しずつ整理がついてきたのではないでしょうか。世間とのかかわりをシャットアウトしているということもけっしてないですし、タイミングさえ合えば、歌う可能性は十分にあると思います。本人は今も歌うことが好きで、日本の昔の歌やシャンソンからファド(ポルトガルの大衆歌謡)までさまざまなジャンルを聴いているようです。歌に対する関心は昔と変わっていません。彼女自身が心から納得のいく曲と出合うことができれば、新曲を歌うこともあるでしょう」
引用先:女性自身
今も多くの人の感情を揺さぶるちあきなおみさんの歌は普遍的な魅力です。
“伝説の歌姫”がもう一度マイクを握る姿を見たいというファンの声は多いようですが、表舞台に出ないからこそ、伝説になっているとも言えますね。
まとめ
現在も語り継がれる伝説の歌姫ちあきなおみさんの魅力について調査しましたが、筋が一本通ったカッコいい女性だなと思いました。
ヒットを出した直後に商業路線から独自路線を選択する迄の過程で出会った最愛の夫。
それから二人三脚で歩んで来られ、2人でちあきなおみというペルソナを創造した同志。
夫婦でありながら運命共同体だったんでしょうね。
芸能活動再開が待ち遠しいファンがいる事はちあきなおみさんご自身にも伝わっているようですので、気長に再開を待ち続けたいですねー。
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