「漂流教室」や「まことちゃん」などホラーからSF、ギャグ漫画まで幅広く手がけた漫画家の楳図かずおさんが、2024年10月28日に胃がんで亡くなりました。享年88歳。
トレードマークの赤と白のボーダー柄のシャツや明るいキャラクターが人気を集め、テレビ番組への出演や音楽活動など、幅広く活躍され、人としての魅力も伝わってくる唯一無二の方でした。
実はホラー漫画家で有名になる前は、劇団ひまわりに在籍したり、少女漫画を描かれていたようです。
という事で楳図かずおさんの若い頃を探ってみる事にしました。
【画像】楳図かずおの若い頃を振り返る!
私も子供の頃に「おろち」を愛読していました。怖いもの見たさで読んでは閉じ読んでは閉じを繰り返していた記憶があります。
楳図かずおさんの書くホラー漫画(恐怖漫画)は、シュールでおどろおどろしい世界感満載で、一度見たら忘れられないもの。
でも怖いだけではない人間の本心を描いたものが多く、奥が深いのです。
これは若い頃から培った体験によるものなのでしょうか?
小学校5年生で漫画家になる事を決意
楳図かずおさん、父親が小学校教員だったので、幼少期は奈良県の山間部の僻村を転々としたそうです。
3歳から6歳までは奈良県宇陀郡曽爾村で過ごし、父から地元の伝説や民話を聞かされて育っています。
伝説や民話って意外に怖いものも多いので、後の楳図かずおさんの作品にもつながったのかもしれません。
小学5年生の時、手塚治虫の『新宝島』を読み、漫画家になることを決意。
中学生の頃は既に既にプロになる事を意識し同人誌へ投稿をしていたようです。
18歳『森の兄妹』でプロ漫画家デビュー
1955年高校卒業後、親の言いつけで奈良学芸大学(現・奈良教育大学)を受験したものの失敗。
同年、『森の兄妹』でプロデビューを果たしています。
これは、楳図かずおさんが中学生の頃に書き、18歳の時にようやく世に出たという、記念すべきデビュー作。
ストーリーはヘンゼルとグレーテルをモチーフにしたものですが、中学校でこの作風は見事です。
デビュー以降は、貸本漫画を多く発表し人気作家に。
当時貸本屋というものが世の中に存在しており、料金を取って一定の期間貸す書籍がありました。
22歳で少女漫画連載スタート
1958年には、少女漫画「少女ブック」でバレエ漫画「母よぶこえ」の連載がスタート。
当時は多くの少女漫画を発表し、順調にキャリアを重ねています。
しかし、少女漫画界では『男の子は出さないで!』など規制があり、自分の描きたい内容とかけ離れている事を実感。
その後ホラー漫画に目覚めたそうです。
24歳で「人形少女」を発表
人形を子供のように育てている人がいるという実話にヒントを得て描かれたものです。
27歳で劇団ひまわりの青年部へ
同じ大阪貸本漫画家の先輩に誘われ上京、このころ本格的に俳優を志し、年齢を下に詐称して劇団ひまわりの青年部に入り、映画『兵隊やくざ』(大映、1965年)やNHKの朝の連続ドラマに出演。
俳優を目指すというのは自分自身を表現したくなったという事もあったのでしょうが、実は漫画家では食べていけなかったようです。
直ぐに映画やドラマへ出演出来たという事は、俳優としての才能もあったのでしょうね。
但し俳優業は思わぬ形で退団。劇団の上層部の人間から宗教への入信を勧められたのに嫌気が差したのが退団理由だったそうです。
29歳で恐怖漫画「ママが怖い」を発表
俳優業は諦め漫画家に専念する事を決意。そして「ママが怖い」を発表するとたちまちブレイクします。
なんと、お母さんがヘビになるという話で、美少女が怖い出来事に巻き込まれる恐怖の物語。
1950年代から60年代にかけて、少女向けマンガの世界では「母もの」が大流行していました。強くて優しくて不幸な「お母様」を、娘が慕うメロドラマが雑誌にあふれていたんです。僕の発想の基本に、「流行を正反対にひっくり返す」というのがあります。「週刊少女フレンド」(講談社)に連載した「ママがこわい」(65年)は、同誌における「へび女」ものの第1作になりました
引用先:読売新聞
この作品が読者に大反響を呼び、次々と恐怖シリーズが展開されることに。
30代以降の作品
その後30代から40代にかけては、少年漫画雑誌の連載で大人気に、「おろち」「漂流教室」等、語り継がれる名作が誕生。
そして40歳でギャグ漫画「まことちゃん」を発表し、恐怖漫画と違う下ネタギャグで世間をあっと驚かせました。
またメディアに登場する機会も増えた時期で、おなじみのトレードマークの赤と白のボーダー柄のシャツの姿をテレビで良く目にするように。
楳図かずおのプロフィール
- 本名:楳図 一雄 (うめず かずお)
- 生年月日:1936年9月3日
- 出身地:和歌山県
- 職業:タレント、歌手、映画監督など
赤と白については自身のラッキーカラーだったそうです。凄い数の赤白のボーダーTシャツですね。
公式ホームページ内のインタビューでは「なぜ、いつも赤白しましまシャツを着ているんですか?」との問いに答えている。「多少はゆったり見えるかなっていうので」と細見の体形をカバーするという意味があったほか、「着るとわりとどういう他の洋服にも合わせられるってことで。もうひとつは、テレビに出て、山の中のロケに行ったときに、どういう遠くからでもよくわかるっていう」と、ユーモアたっぷりに明かしていた。
引用先:スポニチ
芸能人のファンも多く、中川翔子さんは熱狂的なファンで有名です。
中川翔子さんのSNSから
「わたしの人生は楳図かずお先生のおかげで今があります。先生の紡ぎ出す世界に救われた人が世界中に居ます。素晴らしい作品と人柄に心から感謝しています」
常にサービス精神旺盛で遊び心がある楳図かずおさんは、永遠に少年のようなお方だったのでしょうね。
楳図かずおの受賞歴
1975年 『漂流教室』ほかで第20回小学館漫画賞受賞
2018年 『わたしは真悟』で仏・アングレーム国際漫画祭「遺産賞」受賞
2019年 文化庁長官表彰受賞
2023年 第27回手塚治虫文化賞・特別賞受賞
海外からの評価も凄く高い楳図かずおさんの漫画は、グロテスクと美が魅力的。
これからも永遠に評価され続ける作品だと思います。
まとめ
今回は、楳図かずおさんの若い頃を振り返ってみましたが、幼い頃からの才能と感性は誰にも真似の出来ない個性的なものだった事が良く分かりました。
そして一番の魅力は、常に流行りとは真逆のアイデアで勝負するという発想。
楳図かずおさんの人生を振り返ると、流行りに流される事なく、独自の目線で勝負しろ!と言われているような気になりました。
ご冥福をお祈りすると同時にこれからも名作の数々を読み続けたいと思います。
コメント