映画「釣りバカ日誌」シリーズや数多くのドラマや舞台で幅広く活躍した俳優西田敏行さんが2024年10月17日に世田谷区の自宅で倒れているのが見つかり、その場で死亡が確認されました。享年76歳。
10月8日には都内で行われた映画「劇場版ドクターX」の完成報告会見に出席しており、突然の訃報に芸能界やファンから惜しむ声が相次いでいます。
明るく愛嬌のあるキャラクターが印象的だった西田敏行さんですが、実は生い立ちは壮絶だったようです。
今回は彼の生い立ちに注目をし、調査してみました。
【画像】西田敏行の生い立ちが壮絶だった!
西田敏行さんの生い立ちは両親の再婚と実父の死去に影響され複雑なものになっていったようです。
父が4度目の再婚
1947年11月4日に郡山貯金局に勤める今井泉(実父)と紀惠(実母)の間に1947年に西田敏行さんが誕生。
実父は既に3度の離婚歴があり前妻との間に子供もおり、紀惠さんとは4度目の再婚だったのです。
4度目の再婚の時の今井泉(実父)さんは当時52歳、紀惠(実母)さんは21歳で家族の反対を押し切って結婚したそうです。
しかし西田敏行さんが3歳の頃にお父さんは亡くなってしまいます。
父の死去後に母が再婚
お母さんは美容師として働き、女でひとつで西田敏行さんを育てますが、5歳になるころ、紀惠(実母)さんが再婚。
再婚相手の男性には、西田敏行さんと同じ年の男の子がおり、紀惠(実母)さんは息子を連れて行くことを諦め、そのタイミングで西田敏行さんは伯母夫婦の家に預けられることに。
後に紀惠(実母)さんは再婚相手の男性と女の子を授かっています。
祖母の養子として育つ
母の再婚により伯母・美代(母の姉)夫婦の西田家に引き取られることに。
実は、伯母・美代さんは実子を生後7か月で伝染病で亡くしており、西田敏行さんを養子にもらいたいと懇願したようです。
養父・西田辰治は、郡山市役所に勤めていたが、生活は厳しく、家族は神社の社務所に居住を構えることに。
しかし、しっかりと愛情をかけて育ててもらっていたそうです。
子供の頃は養父に連れられて映画館へよく行ったそうですが、観るより映画のスクリーンに映る自分をよく想像していたようです。
中学卒業後に上京
中学校に入り、演劇に興味を持つが、演劇部は女性部員ばかりで、当時、男子生徒の部活動といえば、スポーツが一般的だった風潮もあり、悶々とした3年間を過したようです。
複雑な家庭環境もあり、早くから独立精神が強かったのかもしれませんが、意を決して両親を説得し、中学を卒業と同時に上京し、明治大学付属中野高等学校に入学。
男子バレー部に所属しましたが、演劇部の女子に頼まれて、男役として協力することになります。
1966年(昭和41年)、明治大学入学と同時に日本演技アカデミー夜間部に入る。
同年大学を中退して夜間部から昼間部に移り、翌年に卒業した。仲間と劇団『シアター67』を結成するが失敗。
ちょうどその頃、1967年(昭和42年)に『渥美清の泣いてたまるか』(TBS)でテレビ俳優としてデビュー。
本格的に俳優の道へ
1968年(昭和43年)、青年座俳優養成所に入り、1970年(昭和45年)に卒業し、青年座座員へ。
同年の青年座7月公演『情痴』(作:西島大)で初舞台。
1971年(昭和46年)の10月公演『写楽考』では早くも主役に抜擢され大器の片鱗を見せています。
その後は本格的に俳優の道へ進み、1978年には『西遊記』、1980年には『池中玄太80㎏』で大活躍し、歌手としても紅白歌合戦へ出場を果たしています。
まとめ
西田敏行さんの突然の訃報に驚きと悲しみを感じている方が多いと思います。
私もそのひとりですが、西田敏行さんの演技の幅の広さやあの優しいキャラクターは複雑な生い立ちの中から蓄積された経験によるものも多いのだろうなと思いました。
76歳という若さで亡くなられたのは本当に残念でたまりません。
個性派俳優としてだけではなく、歌や司会等と幅広い才能で私たちを魅了してくれた西田敏行さんの冥福をお祈り申し上げます。
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